初冬

競技プログラミング・俳句・生成AI(Bard・Stable Diffusionなどなど)・AIアート・日記。それらを書いています。それらについてとりとめもなく書くブログです。行き当たりばったりで書いてます。

最大多数の最大幸福

Bardに「最大多数の最大幸福」について聞いていました。
功利主義の原則です。
「最大多数の最大幸福」について詳しく聞きたいと思い、聞いてみました。
面白い答えが返ってきました。
今日はその話をします。

「最大多数の最大幸福」は幸福が正しいことであり、苦痛が正しくないことであるという原則に成り立ちます。
幸福は良いことであり、苦痛は悪いことであるという考えは分かりやすい。
相反するものかは別として、幸福が増えればよし、苦痛が減ればよし、です。
考えそのものは簡単です。

社会全体で幸福が増えればよし、社会全体の幸福が減ればわるし、という考えです。
なので、社会全体の幸福を増やすことが最もよいことである、と主張します。
社会に住む人々の幸福が多ければ多いほどいいわけです。
明快だし、分かりやすいと思います。

少数派の利益が損なわれるという批判があります。
少数の人の意見を取り入れなければ、大多数の人々の幸福につながる場合に少数の人の意見を亡きものにするべきだという意見です。
「少数の人の幸福のために大多数の人々の幸福を犠牲にしていけない」というわけです。

例をあげます。
船で沈没しかかっている。
そこで一人の人を海に落とすとほかの全員の命が助かる、その人が重すぎるので。
その代わりその人が助かるにはそのほかの人々が全員海に飛び込まないといけないシーンを想像してみてください。
その場合に大多数の人を助けるために、その人たちの幸福のために、一人の人を落とすべきか? というわけです。

アフリカで食糧問題が起きています。
私たち食に困っていない人たちが彼らに支援します。
もしアフリカの人々の数が少なく、彼らを全員、亡きものにすれば大多数の人々は幸せになれます。
この場合アフリカの人々を亡きものにして大多数の人々の幸福を優先するべきか、です。

老人が少ない国で老人を支えるために大多数の人々が支援して彼らの生活を支えている。
老人を犠牲にして大多数の人々の生活を幸福にする、老人を亡きものにできれば、彼ら多くの人たちは幸せになる。
であれば、「最大多数の最大幸福」の原理にしたがえばそうすべきであると結論づけられると思います。
そういうものです。

明らかにおかしい、矛盾していると感じます。
「最大多数の最大幸福」は面白く明快であるけれど、必ずしも正しい答えを導けるわけではなさそうです。
多くの人の幸せのために少数派の幸せを犠牲にするなど良くないと思います。
多数派も少数派も幸せになれる道があるのなら、それを模索していくべきだと感じます。

あと、幸福の定義もさまざまで主観的なもので客観的に計ることが難しいという意見もあります。
誰にとってなにが幸せかは人によって様々なだけに、難しい……。
そんな難しいことができるの? という意見です。
主観的なものだけにどのように数値化するかが問題になります。

私は以前にアフリカの食糧問題を解決するにはアフリカの人たちを全員餓死すればいいという考えを聞いたことがあり、それはそうかもしれないけれど、エレガントな方法じゃないよね?  という意見もまた同じ人が言っていました。
うーむ、こういう問題ってどう考えるんだろ? と思っていたのですが、ひとつの答えみたいなものが得られました。
それが「最大多数の最大幸福」の矛盾です。
やはりこの考え方では矛盾するところが出てきます。

少数派も多数派も同時に幸せになれる施策をとればと思います。
大多数のために少数派が犠牲になったり、少数派のために大多数の方々の犠牲が必要になったりすることは嫌です。
両者が幸せになれる道を探したい……それが私の思いです。
そんな感じで今日の日記を終えます。

© 2023 ashitsunokara